エッセイ『幸福な出会い』

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辞典

 「言葉の世界でランデブー」


 人生にはいろいろな出会いがある。人との出会い、場所や物との出会い。ペットとの出会いが人生を変えた、なんていう人もいる。出会いは人生そのものなのだ。


 さて、ぼくにも最近思わぬ出会いがあった。恋するような出会い。

 出会った相手はふたつの少し変わった辞典である。相手が人間だったら二股をかけることになるかもしれないが、困ったことに、相談にのってもらう場面も違うし、どちらかひとつだけを選ぶことは出来ない。それほどこのふたつの辞典には惚れこんでしまったのだ。

 ひとつ目は『類語新辞典』角川書店、そしてふたつ目は『てにをは辞典』三省堂だ。このふたつの辞典が愛らしくて仕方がない。外出するときにも辞典用の鞄を用意してわざわざ持ち歩き、寝るときには枕元に置くほどの溺愛ぶりなのだ。大袈裟だと笑う人がいるかもしれないけれど、これ本当なんです。

 一般的に辞典、辞書と聞くと、まっさきに『広辞苑』岩波書店や『大辞林』三省堂といったメジャー級の辞典を思い浮かべるのではないだろうか。少しミーハーごころを発揮して横道にそれたとしても、変わった語釈で話題となった『新明解国語辞典』三省堂あたりを選ぶのが精々だろう。

 いま挙げたみっつの辞典は、わたしたちが何気なく言葉を探し、意味を知るうえで、ごくごくふつうに利用出来る便利な辞典だ。例えば「愛」を調べたい場合、「あ」「あい」「愛」というふうに五十音順に発音してページをぱらぱらとめくっていけば知りたいことに行き着けるようになっている。

 ぼくが出会ってしまったふたつの辞典は、こうした言葉を検索するための常識が通じない。例えば『てにをは辞典』は、五十音で検索は出来るけれど、言葉の意味がちっとも書かれていない。「愛を嘆く」というように「愛」と「嘆く」という言葉が「を」でつながることは分かるし、そうした例文なら何万も載っている。辞典なのに、とにかく意味が調べられない辞典なのだ。

『類語新辞典』はといえば「自然」「人事」「文化」という大きな範囲の3つの親階層がまずはあって、その下に「変動」「心情」「社会」……という、ひとつ下の十個の子階層がつながっている。そしてさらにその下に孫階層が……という具合に、似た世界観をもつ言葉たちが寄り集まってそれぞれグループを形成して並んでいる。もちろん五十音順には並んでいない。

  こんなふうだから、五十音順に検索するとか、言葉の意味を調べるといった一般的な辞典のルールは、これらふたつの辞典にはほぼ通用しない。型破りだが、頼れる人なのだ。

 

 一見不便そうに思えるこれらの辞典にぼくが惚れたのは、何もルール無視のアナーキーな辞典に、革命家の姿を見たからではない。このふたつの辞典は、言葉の広がりや個々の言葉がそれぞれお互いの意味を少しずつ補完・依存しあって世界を現そうと主張しているところに、ぼくはかけがえのなさを感じたのだ。

 例えば「愛」を『てにをは辞典』で調べると、「愛が生まれる」「愛をささやく」「偽りの愛」「永遠に変わらぬ愛」というふうに、愛という言葉を中心にして、言葉と言葉がどんなつながり方をするのか、前後の言葉の関係性を教えてくれる。だから、言葉の流れに詰まったらこの辞典をめくると、堰止まった川の淀みが流れ出すように、言葉が生き生きと動き始めるようになる。

 そしてさらに、「愛」という言葉を使わずに、もっと別の表現をしたいと思ったような場合には『類語新辞典』をめくってみる。「愛」は、心情ー愛憎ー愛憎ー愛という階層で連なっていて、愛からの横の広がり眺めてみると、「慈しむ」「博愛」「恋愛」「他愛」といった言葉らの中にあることが分かる。これは「活用」のような微細な言葉の変化ではなく、明らかに独立した個々の言葉が、まるで「全体」と「部分」(@アーサー・ケストラー)の関係のように、一部ではお互いを支え合いながら、世界の広がりと深みを創出していることを感じさせるのだ。


 言葉はなんて愛らしいんだ。抱きしめたくなる。言葉ひとつを知るだけで、ぐっと自分の世界が広がり、さらに深まっていくのを感じる。ぼくのように言葉と向き合う仕事をしている者にとってみれば、新しい辞典との出会いは、良き相談相手を見付けたようなものであり、その性格や立ち振る舞いに恋心に似た感情を抱くこともあるかもしれない。

 そんなことを思いながら、今日もぼくはこのふたつの辞典をワープロの傍らに置いて、言葉の世界をランデブーする。

「社会」ー「社交」ー「出会い」ー「ランデブー」


【ランデブー】恋人とーする。あいびき。(『類語新辞典』角川書店)